2016年3月23日水曜日

三学期終業式式辞

 昨日は高校入試の合格発表でした。1年前、2年前を思い出し、そのころ自分が思っていたことと今の自分を、誰しもがそっと比べていたことと思います。学年の締めくくりの時期、今年度を振り返り、来年度の目標を立ててもらいたいと思います。


 さて、今日は内村鑑三、明治の思想家で、無教会派のキリスト教徒の立場からヒューマニズムを説いた人ですが、彼がその著作『代表的日本人』において描いた西郷隆盛について、お話ししようと思います。西郷隆盛は明治維新を中心となって遂行し、また、最後の士族反乱である西南戦争において政府軍に敗れて自刃しました。
 天の命は誰の生涯にも呼び掛けている。しかし人間は、自分の思いで頭も胸もいっぱいで天の声がよく聞こえない。そうした時、人はどうしたら天の声を聞きうるのかを主軸に、内村は西郷隆盛について語っています。西郷の生涯は「天の命」に貫かれている。そして天の声を聞くための人生の道行きとして、西郷は「敬天愛人」を説きます。
 力で人を圧しない。人を自分の思い通りに使わない。他者のために自分をささげる行為を繰り返すことで、天の命が西郷の生涯にまざまざと現れてきます。
 隆盛は男4人女2人の6人兄弟の長男でした。動作ののろい、おとなしい少年で、仲間の間では間抜けで通っていました。少年に初めて義務の心が芽生えたのは、遠縁の一人が、隆盛の面前でハラキリをする光景を目撃したことによる、といわれています。その男は、まさに刀を腹に突き刺さんとして、命というものは君と国とに捧げなければならない、と若者に向かって語りました。若者は泣きました。その日受けた強烈な印象を、一生、けっして忘れることはありませんでした。
そののち西郷は陽明学に傾倒し、また禅の思想にもいくらかひかれました。禅の思想に惹かれたのは「自分の情もろさを抑えるため」とのちに友人に語っています。若い西郷は江戸で水戸藩の当時大変人気のあった儒学者藤田東湖に会い、意気投合しました。そのあと薩摩に帰った西郷は討幕運動に加担します。そして西郷は幕府から逃げている勤王派の僧侶月照からその保護を頼まれましたが、守り切れないとわかった西郷は、月照に死ぬことを提案し、同意を得ました。月の明るい夜、2人は船で海に漕ぎいで、手に手を取って海中に身と投じたのでした。水音に眠りから覚めた家来はすぐに2人を捜索しました。二人の体は引き上げられ、西郷は息を吹き返しました。しかし、月照の息は戻りませんでした。西郷は友人に対する人情と親切の証として、自らの生命をも惜しまなかったのでした。この弱さ―禅によって抑えようとした「情のもろさ」―こそ、西郷を西南戦争に巻き込ませ最後の破滅に導くことになるのです。
 そのあと薩長連合が結成され、幕府より大政奉還の上表が出されましたが、1868年1月、鳥羽、伏見で戦争がはじまりました。西郷の沈着冷静は、伏見で最初の戦いの火ぶたが切られた時の官軍の頼みの綱でした。前線から使者が来て報告しました。「援軍を送られたい。一小隊のみで敵の激しい戦火にさらされています。」西郷は告げます。「諸君が全員戦死したなら送ろう。」使者は帰りました。敵は撃退されました。このような司令官を持つ方が勝たないわけはありません。明治新政府ができて西郷のもくろんだ方向に新政府は動き始めました。西郷は薩摩に下がっていましたが、政府に呼ばれて上京し、参議という要職につき多くの仕事をしました。ところが征韓論の政変に巻き込まれます。これまで人前で怒ることのなかった西郷ですが、このとき岩倉具視らがとった卑劣なやり方にはさすがに激高し、直ちに郷里の薩摩に引退しました。
 西郷の生涯で最も残念なのは最後の時期だとされます。彼の生来有した「情のもろさ」が西郷を反乱軍との結盟に向かわせたとはよく言われるところです。西郷は言うまでもなく時の政府に対し強い不満を抱いていました。しかし、彼ほどの分別のある人間が、ただ怨恨だけの理由で戦争を始めるなどは想像しがたいことです。20年前、客人を歓迎するしるしとして自分の命まで提供することをも約束した西郷は、今再び自分を敬愛する人たちのために、友好のしるしとして、自己の生命、自己の名誉、自己の一切を犠牲にするに至ったのかもしれません。西郷の生活は質素でした。普段着は薩摩がすりで、幅広の木綿帯、足には大きな下駄を履くだけでした。この身なりのままで宮中の晩餐会であれどこへでも行きました。
西郷の作った漢詩があります。
   我が家の法、人知るや否や
   児孫のために美田を買わず
 西郷は人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしませんでした。人の家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったままで、誰かが偶然出てきて、自分を見つけてくれるまで待っているのでした。
西郷は口論を嫌ったので、できるだけ、それを避けていました。あるとき宮中の宴会に招かれ、いつもの平服で現れました。退出しようとしましたが、入り口で脱いだ下駄が見つかりませんでした。そのことで、誰にも迷惑をかけたくなかったので、はだしのまま、而も小雨の中を歩きだしました。城門に差し掛かると、門衛に呼び止められ、身分を尋ねられました。普段着のまま現れたので怪しい人物とされたのでした。「西郷大将」と答えました。しかし門衛は、その言葉を信用せず門の通過を許しません。そのため西郷は、雨の中をその場に立ち尽くしたまま、誰か自分のことを門衛に証明してくれるものが現われるのを待っていました。やがて岩倉具視大臣を乗せた馬車が近づいてきました。ようやくはだしの男が大将であると判明、その馬車に乗って去ることができました。
 西郷の文章です。
「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」
「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある。八分通り成功していながら、残り2分で失敗する人が多いのはなぜか。それは成功がみえるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから、失敗するのである」
「機会には二種ある。求めずに訪れる機会とわれわれの作る機会とである。世間で普通に言う機会は前者である。しかし真の機会は、時勢に応じ理にかなって我々の行動する時に訪れるものである。大事な時には、機会は我々が作り出さなければならない。」
判断のとき、忘れてはいけないのは、機会は、「私の」機会ではないという点です。「私」の希望が、どうしたら「他者」の幸福に貢献しうる希望になっていくかを考え続けたのが西郷の生涯でした。「生きる」とは、西郷にとって無私とは何かを問う道だったのです。
本当のことは、強き者や明らかになっていることにあるのではなく、弱き者や隠れたもののもとにある。それを示す存在として、西郷隆盛を忘れることはできない、―内村鑑三はそう言いたかったようです。


明治維新という大きな革命を推進する最も大きな原動力と言える西郷隆盛。その強烈な個性の持ち主が、私というところから最も遠い考えを持っていました。現在の私たちは私の目標、私の人生ということをまず第一として考えることが多いように思います。しかし、真逆の「私の」を捨てた生き方、人のために、あるいは正義のために、あるいは理想のために、という生き方が、かえってその人を輝かせ、個性をくっきりと浮かび上がらせるということもあります。もちろんこのような考え方は危険とも隣り合わせです。正義と信じるものが実は誤りだったということもあるからです。そういうことも決して忘れてはなりません。ただ、己を追求するだけが人生ではないということも言えるのではないでしょうか。正義とか理想とかはなかなか口にするのは気恥ずかしいようなところもありますが、とても大切なことだと思います。


今日は内村鑑三の説く西郷隆盛についてお話ししました。それでは春休みが充実したものとなることを祈っています。


(『100de名著 ひとはみな「永遠」を生きる 内村鑑三 代表的日本人』若松英輔著 NHKブックス に多くを負っています。)

2016年3月4日金曜日

卒 業 式 式 辞


  柔らかな春の穏やかな陽気に降り注ぎ、梅の花も馥郁と香るこの今日の佳き日に、香川県教育委員会より教育委員 平野美紀 様をはじめ、香川県議会議員 平木享 様、PTA会長 小原浩司 様ほか多数のご来賓の皆様のご臨席を賜り、ここに平成二十七年度香川県立高松桜井高等学校卒業証書授与式をかくも盛大かつ厳粛に挙行できますことは、校長としてこの上ない喜びであり、厚くお礼申し上げます。

 さて、晴れて今日の日を迎えた普通科3年生二百七十九名の皆さん、卒業誠におめでとうございます。本校を代表し、心からお喜びを申し上げます。先ほど、皆さんの代表に卒業証書を授与しましたが、それはただ単に本校で規定の単位を修得したということに対してのみではありません。皆さんは十五歳から十八歳という多感な時期に、本校において学業のみならず、部活動や学校行事、生徒会活動やボランティア活動、あるいは友人との交流などを通して、様々なことを経験し学びました。楽しいことや嬉しいこともあれば、苦しいことや辛いこともあったことと思います。その中で皆さんは心身ともにたくましく成長し、皆さんの個性を伸ばしてきたことと思います。そのような皆さんの3年間の頑張りに対しても授与された卒業証書と考えています。
 
 今日、世界は、ますます変化の速度を早めています。流動化している大国の力関係、地域紛争や頻発するテロ事件、環境問題や資源・エネルギー問題などの課題が世界のなかで絡み合いながら私達の前に立ち現われるようになりました。国内では少子高齢化がさらに進行するなかで、情報化、グローバル化がますます進み、経済格差が拡大しており、暮らしやすい地域社会をどのように作っていくかが大きな課題となっています。そして、次代を担う皆さんには大きな期待が寄せられているのです。
 
 さて、これからはみなさんの多くが、住む場所が変わり、否が応でも他人と違う自分を強く感じることと思います。奇しくもみなさんは選挙権を日本で最初に十八歳から行使する世代となりましたが、この門出の時の皆さんに私が望むのは、「個としての自立」ということです。自分が物事をどうとらえるのか、何を自分がいいと思うのかということをしっかり考えてほしいのです。もちろん、これから先々いろいろ学ぶことで、またいろいろな体験をすることで変わっていくことだと思います。その時々で自分が好きなことを自由に選べばよいのです。その代わり自分が選んだことに責任を持ち、また、他人が選んだことにも同様の敬意を払わなければいけません。それは孤独を感じる世界かもしれません。しかし、自由で一人ひとりを尊重した世界でもあります。夏目漱石の言う「自己本位」、精神科医の神谷美恵子の説く「使命感としての生きがいの大切さ」も同じことを表しているように思います。卒業に際し、これから皆さんがそのような「個としての自立」の気概を持つようになることを願っています。
 
 最後になりましたが、ご家族の皆様には、これまで、お子様の健やかな成長を願い、支えてこられました。そのことに対し、深く敬意を表すものでございます。眼の前のお子様の立派に成長された姿を前に喜びも一入の事と存じ、改めてお喜びを申し上げます。
 卒業生一人一人の前途に幸多きことを祈りつつ、また、ご臨席の皆様の益々のご健勝とご多幸を祈念しまして、式辞と致します。


  平成二十八年三月四日

香川県立高松桜井高等学校長 内海富啓 

2016年1月8日金曜日

3学期始業式 式辞

2016年になりました。皆さん、あけましておめでとうございます。正月は初詣に行ったり、雑煮を食べたりしたことと思います。私も近所の神社に行き、今年の平穏無事を祈ってきました。ところが、ついこの16日、近隣国が水爆実験を行ったというニュースが流れました。本当に水爆が開発されたのかどうかはまだはっきりしていないようで、その後の報道を注視する必要がありますが、今年も平和ということは大きな課題のようです。
 さて、今日はダーウィンの話をしましょう。チャールズ・ダーウィンは1809年、イングランド西部シュルーズベリーの裕福な家に生まれました。父は医者で母は陶器のブランドで有名なウエッジウッド社の創始者の娘です。子供の頃は、狩猟や昆虫採集に明け暮れ、勉強には熱心でない、いわば落ちこぼれでした。しかし、決して勉強が嫌いだったわけではなく、興味のあることには一生懸命になるタイプだったようです。やがて家業の医者を継ぐために、エジンバラ大学に進学しますが、残念ながら彼は医者には向いていませんでした。当時は、今と違って麻酔のなかった時代です。麻酔なしの子供の手術に立ち会って以来、手術の授業を欠席するようになり、しまいには退学してしまいます。
 医学の道を断念したダーウィンは、父親のすすめで今度はケンブリッジ大学で神学を学びました。息子の社会的に尊敬される仕事について欲しかった父親の勧めでしたが、ダーウィンは遊び呆けてばかりでした。しかし、地質学者の先生と植物学者の先生の二人の授業だけは熱心に受講し、個人的にも親しく親交を重ねることになります。
 1831年、大学を卒業して実家に帰っていた時、ダーウィンにとっての人生の転機とも言える出来事が起こります。母校のヘンズロー教授から「ビーグル号で世界一周のたびに出てみないか?」との誘いの手紙が届いたのです。ビーグル号とは、南アメリカ大陸の海岸線の調査や海図制作を目的とした世界一周の探検船で、乗船期間は5年間でした。ながいですね。そこでダーウィンが依頼された任務というのは、表向きは地質学者、実際には船長の「話し相手」というものでした。当時、船長は立場上、船員たちとの個人的な会話が禁じられていたので、孤独を癒やすための話し相手となる紳士がどうしても必要だったのです。
 好奇心旺盛なダーウィンにとっては願ったり叶ったりの話です。なんとか父親の許しを得た彼は、晴れてビーグル号に乗り込みます。彼には船長の話し相手以外に特別な任務があるわけではないので、船上では読書三昧の日々をすごしました。そして、地質学の本を読んだ時に、「神がこの世の全てを創造した」という考え方から離れて、「自然界の普遍法則によって自然を説明する」という新しい物の見方を学びました。また、ガラパゴスをはじめとする様々な地に降り立ち、ヨーロッパとは全く異なる生物、地質、人種、文化に触れたことも、後の彼にとって大きな財産となりました。
 南米では奴隷農場の暮らしを見て、人間としての尊厳を奪うシステムに大きな衝撃を受けます。そして、「人間に上下はなく、全て平等な存在としてみるべきだ」という当時としてはリベラルな考えを持つようになりました。
 このような彼の考え方が、進化論、すなわち、生物はみな平等な存在であると考えるようになり、自然界の限られた居場所においては、複雑な生物が高等なのではないということ、どんどん枝分かれして多様化すること(diversity)こそが、生存競争に勝つ鍵であるということなどの考えを生み出したのではないかと私は思います。
 5年間の旅を終えてイングランドに帰国したダーウィンは、旅先から送っていた標本類が貴重な資料として学会で大きな評判を呼んでいたので、おそらくは大学の教授の職につくことも出来たはずですが、彼が選んだのは、親の財産を食いつぶしながら好きなことだけを極める市井の研究者の道でした。その後、ダーウィンは生物の個体間の様々な競争の大切さに気づき、進化論者になりました。しかし、彼が『種の起源』を出版したのは、ビーグル号の旅から帰国して20年以上経ってからのことでした。20年ですよ!
 なぜ、これほど出版が遅れたのでしょう。それは、彼がこの理論を発表すべきかどうか迷っていたからです。キリスト教の教義を否定することにつながる進化論はある意味危険な論理です。そのため、彼は反論の余地が無いほど完成度の高い論文を作ろうとしました。そのために20年が過ぎてしまったともいえます。ではなぜ20年なのでしょう。それは、他の学者からほぼ同じ理論が書かれた手紙を受け取ったからです。このままでは先を越されてしまうかもしれないと思ったダーウィンは急遽、二人の共同発表という形をとって「自然淘汰説」と題した論文を学会で発表します。
 しかし、この時は思ったほどの反響がなく、一般向けの書物として『種の起源』を出版します。この本はたちまちベストセラーとなり、大反響を呼ぶことになりました。
 『種の起源』では半分以上のボリュームを使って、自説に対する異論や反論を想定し、それについての具体的な検証を行っていきます。ここがダーウィンの真骨頂です。事例を一つ挙げれば済むようなものであっても、出来る限りのデータを集め、多面的にそれを証明しようと試みました。こうしたプロセスを踏んで行くと、初めは曖昧に思えていた仮説も、どんどん確実で明確なものになっていきます。そして最後には誰も反論する余地が無い完璧な論理が構築されていくのです。
 彼が提唱した進化論自体も素晴らしいのですが、それを導き出す科学的、論理的思考プロセスこそが、真の科学者と言われる所以です。
 今日は、今から約二百年前に生まれたダーウィンについて話しました。
 最後に。
 三年生に。みなさんの多くは一週間ほどに迫ったセンター試験で頭がいっぱいのことと思います。「人はどんなに勉強しても、必ず「もっと勉強しておけばよかった」と後悔する」という言葉があります。人間は後悔する動物です。どうやらみんなそうなのですから、ポジティブに考え、体調管理に注意して、幸い今年は暖冬ですが、油断せずに本番に臨むようにしましょう。
 一、二年生に。「友人関係の悩み」というのを最近よく聞きます。イライラしてしまう……。しかし、そのイラッと来るのは、まるで自分を見ているようだからではないですか。もしそうなら、「自分」というものは、なかなか見えない、あるいは見たくないものですが、謙虚に直視して欲しいと思います。それでは、この3学期が実りある3学期となることを祈っています。

(ダーウィンについては『ダーウィン 種の起源 命はつながっている』 長谷川眞理子著 NHK出版 に負っています。)