2015年5月19日火曜日

校長式辞・校長講話より


 江戸時代初期の剣豪で二刀流の開祖の宮本武蔵という人がいます。
人生で、60余回戦い、すべて勝利したとも言われています。彼は「我、事に於いて後悔をせず」と言いました。
 私たちの人生では、何度か大きな決定があります。そして、決めたあと、それでよかったのか不安に思うことがあります。しかし、選んだあとは、よほどのことがない限り、その道を追い求め、寄り添い、付きあうことが大切です。そうやってはじめて見えてくるものがあります。悩んだり、選び直したりして、いつまでも入り口付近でさまよっていたりするよりも、ひとつのことを追求してその高みに至ることのほうがずっと充実した、納得のできる生き方になると思います。現実の自分を「よし」と引き受けてひたむきに努力を重ねて欲しいと思います。
平成26年4月7日

 現代は大きな変化の時代です。それにともなって多くの課題があります。進展する情報化・国際化やグローバル化、少子高齢社会の到来、財政問題、人知の及ばぬ自然の脅威等。みなさんは、これらの時代の課題に対峙し、力強く生き抜いていかねばなりません。私たちの高松桜井高校は、「自ら主体的に学び、考え、行動するたくましい人間の育成」を教育目標としています。今日はこの自ら学び、考えることに大切さについて、お話しします。
 東京造形大学の前学長である諏訪敦彦さんが、「経験という牢屋」とお話をしています。諏訪さんは、地方から東京造形大学に進学し、偶然に出会った人たちの映画作り手伝うようになりました。大きな充実感と刺激を感じ、そうして、だんだん大学に対する期待を失っていきました。やがて大学を休学し、数十本の映画の助監督をして、仕事ができるようになっていることに満足していました。そんな時、諏訪さんは大学に戻り、初めて自分の映画を作ります。同級生に比べて多くの経験があったので自信がありました。ところが、作品は惨憺たる出来でした。大学の友人からも全く評価されませんでした。一方で、同級生たちの作品は、経験も、技術もなく、破れ目のたくさんある映画でしたが、自由な発想に溢れていました。諏訪さんは、言っています、
「授業に出ると、現場では必要とされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり、人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場で出会わなかった何かが蠢いていました。私は、自分が「経験という牢屋」に閉じ込められていたことを理解しました。」と。 
 諏訪さんは、働くことをやめて、大学に戻りました。
「経験という牢屋」とは何でしょうか? 現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものです。その作法が有効に機能しているシステムでは、能力を発揮しますが、誰も経験したことのない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし新たに何かを創造する仕事は、まだ誰もが経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。それはまた、探求といってもよいでしょう。まだ誰も知らない価値を探求するのに必要な飛躍。そのような飛躍は、経験では得られないのです。それは「知性」によってはじめて可能となることなのです。
 この自ら学び、考えることの大切さは高校でも変わりません。むしろ、高校からそのような訓練をしていくことが大切だと申せましょう。皆さん、本校での高校生活のなかで、自ら学び、考える態度を身につけていってもらいたいと思います。
平成26年4月8日 入学式式辞より

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