2015年10月26日月曜日

本校国語科 北原峰樹先生が、本を出版されました。

平成271026

北原先生(国語科)が本を出版


 このたび、本校の北原先生が本を出版されました。四国新聞でも紹介されています(平成27915日朝刊)。実は北原先生はこれまで、翻訳書として『物語でつづる中国古代神話』(美巧社)、共著として『治水神禹王をたずねる旅』(人文書院)、編著として『大禹謨再発見~それを受け継ぐ人たち~』(美巧社)という本をそれぞれ出版しています。今回出されたのは『平田三郎の生涯~大禹謨を世に出した人~』という本です。その本の内容がどのようなものか。ご本人にいくつか質問をしてみました。

Q そもそも「大禹謨(だいうぼ)とは何ですか
A ここでは「大禹謨」の三文字が彫られている石碑のことを指しています。この石碑は江戸時代の初めに、伊賀上野から讃岐に派遣されて満濃池の修築など、讃岐の治水に大きく貢献をした西嶋八兵衛が建てたとされています。香東川はかつて香川町大野のあたりで二股に分かれていたそうですが、西嶋八兵衛は高松の街づくりや新田開発などのために西側の流れ一本にしました。その工事が終わって、今後の安全を祈願して建てたものと思われます。今その石碑は栗林公園の商工奨励館の中庭に安置されていて、もとあった大野にはレプリカが建てられています。
Q 「大禹謨」の3文字には何か意味があるのですか
A 「禹」とは中国にある黄河の洪水を治めた神さまの名前です。古代中国の聖人という言われかたもします。これまで「大禹謨」とは「大いなる禹のはかりごと」とされることが多かったのですが、実はこの3文字は『書経』の篇の名前で、「~謨」というのは臣下が帝王の質問に答える形で自分の意見を進言する内容の文章です。その内容まで知っていた西嶋八兵衛がこの3文字を選んだのは、当時の生駒藩に対するある思いがあると推測するのですが、詳細は『大禹謨再発見~それを受け継ぐ人たち~』をご覧ください。
Q 「平田三郎が大禹謨を世に出した」とはどういうことですか。
A この「大禹謨」の石碑は長い間埋もれていました。江戸時代や明治時代の書物にも見られません。それが大正元年、香東川の氾濫のあと、堤防工事の際に偶然拾い上げられたのです。ただ当時はそれが何かはっきり理解されず、お墓かもしれないということで近くの薬師如来の横に安置されました。そして時が流れ、昭和20年秋、高松大空襲で大野に疎開していた平田三郎が娘婿と散歩中、ほとんど埋もれていた「石」に文字が刻まれていることに気づき、掘り起こしました。この人はかつて小学校の校長先生をされ、高松市史の編集にも携わった郷土史家でもありました。この「大禹謨」の文字を見て、これは『書経』にある言葉で、禹とは中国の治水神のこと、この地にこうした碑を立てるのは西嶋八兵衛ではないかと思い至ったのです。伊賀上野まで写真を送って確認をお願いしましたが、正式な回答を得られないうちに亡くなってしまいました。しかし、この方がいなければ、「大禹謨」はその価値も見いだされないどころか、そのまま土の中に埋もれてしまった可能性もあります。昭和20年、書物もなかった疎開先で偶然目にした「大禹謨」の3文字から、禹や『書経』、西嶋八兵衛とのつながりまでひらめいた、その人の教養の深さを明らかにしようとしました。
Q 今回この本を出版しようとしたきっかけは何ですか。
A 2年前に「大禹謨」に関する本を出しましたが、その時は、「大禹謨」が再発見されるいきさつや、この3文字にこめられた意味など、「大禹謨」に関する研究や資料を集めたものでした。その編集の途中で、50年前の雑誌に、郷土史家である福家惣衛という人がこの平田三郎について詳細に記録した記事が連載されているのを見つけました。それを埋もれさせないようにしようと思ったことです。
Q 今回何か工夫をしたことがありますか
A 福家惣衛さんが残したのは文章だけでしたので、読者に少しでも興味をもって読んでもらうために、あちらこちらを取材して回り、写真や資料を集めました。そして、文章は右側、それに関連する写真や資料は「トピック」という形で左側にくるようにして、左側を眺めるだけでも、平田三郎の生い立ちや、その時代背景がわかるようにしました。そのほか平田三郎に関係ある人やその人からのメッセージを入れることで、より立体的に平田三郎の生涯を描こうとしたところです。

 文化の秋、郷土史に興味を持っている皆さんはご一読されてはいかがでしょうか。

B5版138p 1080 問い合わせは美巧社087-833-5811へ)

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